「ロックスターと大学生〜伊藤耕と小谷昌輝の魂の思い出〜」

「ロックスターと大学生〜伊藤耕と小谷昌輝の魂の思い出〜」

耕さんは僕が中学生の頃からのアイドルで、最初に聴いたのはブルースビンボーズの「ロックンロールソウル」でした。ブルーハーツ、銀杏BOYZやガガガSP等のパンクボーカルのスタイルを最初にやったボーカリストであると思っております。

時は経ち、大学生になった僕はボーカリスト、毛利研さんと出会いました。
ある日、研さんから紹介したい人がいると言われ、高円寺のライブバー「稲生座」に行きました。
そこには本物の「伊藤耕」がお酒を飲みながら座っていました。
耕さんに「マサキか!よろしくな!お前はスーパーバッドギタリストになりたいのか?」と言われました。
僕は滅相もないと思い、「僕はギタリストになりたいですが、将来の夢は化学分析技術者です。」と答えました。
そうすると耕さんは笑いながら「なんだお前技術者?、面白い奴だな!!物理化学って知ってるか?宇宙の真理でもあるんだぜ、シュレディンガーなんかはな、、、」と僕の大好きな化学の話をしました。
これが、僕と耕さんの出会いです。

それから数ヶ月間だけ、伝説的なロックバンドTHE FOOLSに居させて頂きました。
ここからは、その後のお話をさせて頂きたいと思います。

THE FOOLSでの最後のライブを終えてから、2日後ぐらいに耕さんから電話がかかって来ました。
「よ〜マサキ!今から高円寺来れるか?スタジオドムに入るぞ」と言われました。
スタジオに着くと耕さんはドラムを叩いていました。
「来たな〜フールズでは駄目だったかもしれないけど今から鍛えるぞ〜」
僕はこの日からギタリストとしての大きな試練がある事を知る由もありませんでした。
その日の耕さんはいつもとは違い、物凄く厳しい人となっていました。
「お前ノリが違う」「その音を後100回出せ」「自分の音を聞け」「ブルース向かねえぞ~その音じゃ」

いつも優しい耕さんからこんな事を言われてしまい、僕は物凄くショックで悔しい気持ちになりました。
泣きそうになりながらもがむしゃらに弾き倒しました。
3時間ぐらいの特訓が終わると「ご飯食べに行くか!」といつもの耕さんに戻っていました。
ゆとり世代で臆病な僕は怖がりながらも一緒にご飯を食べました。
お酒も嗜んだ後、耕さんから「明日も暇か?またやるぞ」と言われました。
正直、もうやりたくないと言う気持ちがありました。なんであんなに優しかった耕さんがこんな風になってしまうのだろう、嫌われてしまったのかとも思いました。
そこから、約3ヶ月間と短い間でしたが、何故か僕はロックスター「伊藤耕」から4日に1日ぐらいのペースで会い、鬼の特訓を受けました。
それから、耕さんにいろいろな音楽を教えてくれました。
特にドアーズのギタリストが指の押え方と強弱だけで音量を変えていること、ストゥージズのライブはボーカルの空気に合わせていること、ファンクのノリやレゲエの歴史などたくさん教えてくれました。
お互いの家にも行き来して、ギタリストの指の強弱やボーカリストに合わせること、空気やオーラを感じること等も教えてくれました。
時々、瀬川洋さんや竹中邦夫さん、柳原利雄さん、毛利研さんらもスタジオに来て、何を言う訳でも無く見守ってくれていました。

それから何回もスタジオで特訓を終え、2人で飲んでいた時のことです。
僕は「耕さん、僕は将来、分析技術者になりたいんです。でもそれは大企業やバビロン側についてしまうことになるんです。」と言いました。
耕さんは笑いながら「ば〜か(笑)お前がやりたいことなんだろ? どこにいてもお前がその魂を売らなきゃいいんだよ。」と言われました。
少し驚きましたが、嬉しい気持ちになりました。

北海道へ旅立つ1週間ぐらい前に、耕さんと新宿の銭湯に入りに行きました。
サウナに入りながら、「俺帰って来たら、ソロをやってみたくてよ!その時はお前がギタリストだ!」と言われました。
本心かは分かりませんが、改めてスカウトされた気分になり、僕は「是非ともよろしくお願い致します!」と言いました。
銭湯からの帰り道、耕さんは「下落合に行く前にお前の家に寄るよ!」と言いました。
お酒を用意して改めて音楽の話やギターの音の出し方、空気の感じ方などを教えて貰いました。
その後、東西線メトロの最寄駅まで歩いている途中、「大学ちゃんと卒業しろよ!」「お前に出世払いで焼肉奢ってもらうんだ!」とお話してくれました。

これが僕の耕さんとの最後の会話になりました。

それから、僕も大学の研究で忙しくなりましたが、就職先もちゃんと決まり、大学院も論文審査が通り、全部耕さんに話して焼肉を奢りたいなと思っておりました。
しかし、2017年、僕は訃報を耕さんの奥さん、ますこさんから聞きました。
ヤフー・ニュースやLINE NEWS、音楽ナタリーや音楽関係者、サンボマスター山口さんの「日本語ロック全体の喪失」と言う報道も聞きました。

正直、納得出来ない事と、多分冗談という気持ちが先走り、不思議な気持ちになりました。
葬儀会場に行くと多くの音楽関係者が募り、耕さんとも対面しました。
信じてもらえないかもしれませんが、本当に眠っているようでした。
なぜ、そんなはずがない。ありえない。なんで、なんで。
多くの方々、関係者がそうだったと思います。
僕は絶対に泣かないと思い、葬儀会場では不思議と涙は流れませんでした。毛利研さんや竹中邦夫さん、吉田亮さん、野月ジョージさん、ジャジャさん、マーチンさんたちと音楽の話やお酒を飲んだ後、家に帰りました。
家に着き、シャワーを浴びてパジャマに着替えました。
ボーッとしながらよく耕さんとタバコを吸った家のベランダで一服しようとタバコに火を付けた瞬間、大量の涙がこぼれ落ちました。

またここで一緒に吸いたかった。
お酒をまた飲みたかった。
まだたくさんいろいろな事を教えてほしかった。
なのになんで、なんで。

言葉には出来ない気持ちや感情でいっぱいになりました。

それから現在僕は、就職し今では耕さんに伝えていた分析技術者として日々過ごしています。

「お前がその魂を売らなきゃいいんだよ。」
この言葉を胸に刻み今でも必死に頑張っております。

耕さん、ちゃんと将来の夢、叶えたよ。
ギターだって音楽だってちゃんと続けているよ。
バビロンの世界を照らす星空は今日も綺麗だね。
多分、今ここで輝いているのが耕さんなのかな。
本当にありがとうございました。またいつか。
ちゃんと照らしていてくださいね。
皆、いつまでも輝いているから。

長文でしたが、最後まで読んで頂きましてありがとうございました。
2022年1月3日記す。 小谷昌輝